ベトナム紀行 その.2
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IR会が一人欠員の7名とオープン参加5名の計12人の大世帯である。
数えてみると9名が日向ライオンズの会員ではないか。
ここ数年若い世代の入会でクラブが活気づき、我ら壮年組も元気を貫いている。
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この国は、長くフランスの植民地だった。
日本も第2次大戦の折、数年進駐していたものの、反日感情は薄い。
ベトナム戦争は北をソ連、南をアメリカが支持をした。
最後にアメリカは枯葉作戦に出る。
ベトコンの隠れ家や食料を経つ目的で森林地帯に化学薬品をまいた。
人畜には無害とされるも、人体にさまざまな後遺症が残り、
下半身がつながった「ベトちゃんドクちゃん」は記憶に新しい。
戦争記念館に展示してある写真に「此処は、つらくて見れません」とガイドさんは飛ばした。
広島原爆記念館で見た、目を避けたくなるような記録が壁に貼り巡らせてあった。
戦争の犠牲者は女性や弱い子供を含む民間人であることを改めて思い知らされる。
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大昔から世界中のあちこちで、武力弾圧により領土を広げて来た。
日本もしかり、戦国時代に始まり、明治以降近隣諸国を植民地にと悲しき歴史を刻んだ。
今も中東で戦争が行われ、近くは北朝鮮の核実験に、日本も緊迫した。
第2次大戦を経験した人たちが「戦争は二度してはならぬ」と口をそろえる。
「戦争。ダメ。絶対」
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ベトナムの首都は北のハノイ。僕らがいるのは南のホーチミン。
北ベトナムには四季があり、ホーチミンは雨季と乾季のみ。
丁度雨季に入った頃で、1時間おきにバケツをひっくり返したようなスコールが襲ってくる。
しかし所要時間は10分程度、日本でいう「通り雨」かな。
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今回ベトナムについて何も調べずに来ており、頼りは日程表だけだ。
「メコン川クルーズ」が目に入る。過去に何度か、このクルーズというものを体験した。
エーゲ海の島廻り・バンコク夜景ディナークルーズ・コスタクラシカ済州島上海クルーズ。
イタリアの豪華客船コスタクラシカは14階建で、ホテルで海の上を旅する。
メコン川の名は聞いたことがある。
その黄河の如く大河を優雅にクルーズか、それもよかろう。
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豪華客船は沖合に停泊しているのか、このむき出しになった小型タイ式旅客船でそこに向っている。
すると突如スコールが襲い、全員が雨を避けようと反対側に移動すると、船が傾いた。
船長が慌てて、ガイドに元の席に戻るよう叫んだが、誰も戻らない。
横殴りの硬い雨が、アシの椅子をバチバチ叩く。
誰かが言った「体重の重い人が、行けばいいんじゃないの。」「そうだ!そうだ!」
そして、僕を含む重い3人が、ずぶ濡れになって船を安定させた。
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対岸に着くと、土産物屋に連れて行かれ、ビニール袋に詰め込み切れない量を買い込んだ。
日本に帰って、どうしてこんな物を買ったのだろうと「ロイヤールゼリー」の瓶を眺めている。
昼食は果物で、ホテル持ち込み禁止のフルーツの王様「激臭ドリアン」に舌鼓する。
ワンピースが腰から下に割れた民族服アオザイをまとった女性がベトナム民謡を歌っている。
楽器と歌い手の3人一組のチームが2~3曲披露しながら各テーブルを巡回するのだ。
ベトナムなまりの早口なので気づかなかったが「幸せなら手を叩こう」と「蛍の光」ではないか。
各国の曲を数曲づつレパートリーに入れているのだろう。
女性シンガーは、客足を目で追いながら落ち着きがなく「心そこにあらず」といった感じだな。
そして、ノルマを終えると空き缶に「チップをお願いします」と日本語で微笑んできた。
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号令をかけたガイドさんに着いて行く先に、茶色く濁った用水路がある。
「さ~、皆さん、3人一組別れてくださ~い」と、ベトナム笠が一人づつに配られる。
川舟はことのほか小さく乗客3人で満員御礼。乗る時に足の踏み場を間違えると横転する。
舟頭の激しいベトナム語とジャスチヤーで、一人一人バランスを取りながら乗った。
乗るやいなや、前と後ろのベトナム人が力の限り漕ぎ始める。
亜熱帯植物の中を、会話もなく、ただただ黙々と突き進むのだ。
笠が飛ばないよう手で押さえ、あまった右手は、振り落とされないよう船の縁を掴んでいる。
何処に優雅さがあるのだろう、オリンピックのカヌー競争のようだ
10分も走ったのだろうか、桟橋の上で我同志達が手を振っているのが見えた。
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あれから一ヶ月になるが、この「メコン川クルーズ」を語る者は、いまだいない。
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