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2016年11月06日

#39『きっと、うまくいく』

インド映画で歴代No.1を記録した極上のエンターテインメント作品。名門大学を舞台に3人の学生を中心に描かれる学園ドラマ。楽しく愉快なコメディーかと思いきや、感動させたり、ミステリーになったり、悲しませたり、号泣させたりと観る側の感情を徹底的に振り回す大忙しの映画。しかし根底にあるテーマは現代の社会が抱える大きな問題だった…学問の持つ可能性と危険性を真正面から捉え、発展の陰にある闇にも目を見据えた、最高のエンターテインメント教育映画。




私はこの作品を劇場で鑑賞した。生まれて初めて映画館でインド映画を鑑賞した。そして生まれて三度目の経験をさせてもらった。上映終了後、客席から拍手が沸き起こったのだ。もちろん私も惜しみない拍手を送った。理由は簡単。本当に素晴らしい作品だったからだ


■特殊な手法とあまりにもベタなキャラクターたち
この映画は二つの時間構成で展開される。一つは現在。もう一つは過去の大学生時代。この二つの時間の流れを行き来するという手法だ。この手法はたまに使われてはいるが、あまり多くはない。最近では2011年に韓国映画『サニー 永遠の仲間たち』が記憶に新しい。あと今年超ヒットしているあの映画もそうですね…。

一方、映画に登場する各キャラクターの造形はかなりベタだ。

主人公は三人の男子学生。
ファラン:家がかなり貧乏で成績は落第ギリギリ。
ランチョー:超天才、しかし生い立ちが不明の不思議な人。
ラージュー:親からエンジニアになること切望されていることを重荷に感じている。

脇のキャラクターも、
学長:三人の天敵、封権的で頭の堅い人物。
サイレンサー:記憶一辺倒の勉強をし、勝ち負けの意識が強い。

などなど非常に分かりやすい登場人物ばかりだ。そして、この分かりやすさが重要なのである。

それぞれのキャラクターが何かを象徴している。

それは人間というよりは、社会の構造によって作られた存在といった感じだ。それぞれがインドが抱える問題だとか、競争社会が生んだ思想などを反映させたキャラクターになっているのだ。こういうと人の心が描けていないのではないか?と考えてしまうが、ちゃんとこの映画は人間の持つ二面性もしっかりと描けている点も素晴らしい。


■一括りのジャンルに抑えられない内容の数々
基本的に映画全体に漂う雰囲気はコメディーだ。下らないギャグや下ネタ、そしてあまりにもベタな手法である、効果音を用いて面白可笑しさを演出する手法が全体に持ち込まれている。映画史上でもかなり酷い下ネタばかりのスピーチを楽しめる。

一方、それぞれのキャラクターが抱える問題や競争から外れるために命を絶つ学生の話、親からの過度な期待や押しつけによって苦しむ人間など非常に重い内容もぶち込んでくる。

邦題になっている「きっと、うまくいく」というセリフが連発する曲のミュージカルが序盤始めり、映画は一気に楽しいムードに変わる。しかしその楽しげな曲の終わりに用意されている結末は「きっと、うまくいく」全く真逆の地点に着地してしまうのだ。

インド映画は作中に「ミュージカルシーンを入れる」「喜怒哀楽を描く」などを入れないといけないという「9つの情緒」がある。これが見事に映画としての魅力となっている。つまりそのような制約が邪魔になっておらず、しっかりエンターテインメントとして楽しませてくれる。

この制約の元に、観客の感情を徹底的に揺れ動かそうとする製作者たちの意図が感じられ、そしてその緩急のつけ方が抜群に上手いため観客は3時間弱ある尺も気にならず、笑ったり、悲しんだり、考えさせられたり、感動させられるのである。人を感動させるという技を磨き上げた人々の力が堪能できる作品だ。


■学びは人を、幸せにできるのか?
物語のテーマ上一番重要なキャラクターはランチョーである。

ランチョーは頭が抜群にいいのだが、今のインドに蔓延している競争社会に疑問を抱いている。主人公たちが通学している大学ではいい会社や海外の就職はピカイチだ。しかし何も新発明をしていない。ここでは点の取り方だけを教えて、学問は教えていないと、学長に非難する。

そこから頭が石のように堅い学長とランチョーの思想的な戦いが始まる。これが物語のベース音となっており、かつインドの教育制度への批判、そして”教育とは何か?”ということへ問いかけになっている。インド国内の問題でありながら、全世界の人々の心を打ったメッセージもバッチリ盛り込まれている。

この十年で高度成長を遂げたインド、それを支えていたのは勤勉な学生たちだった。輝かしい繁栄、成長、そして先進国の仲間入りをした国。しかしその陰には競争という社会を前に進ませる麻薬のような力によって、辛い目にあったり、絶望したり、果ては命を自ら絶った者たちの姿があった。

この『きっと、うまくいく』ではそのような闇にも目を見据えている。”教育”に力を入れた政策のお陰で経済成長を果たしたにも関わらず、その”教育”の在り方について自己言及した作品でもあるのだ。基本は楽しいエンターテイントとコメディーだ。けれど、その根底には”教育”によって作り上げられた社会への問いかけ、そして学問が持つ力を二つの視点から描いた傑作である。その二つの視点とは……

※ここから先はネタバレを含みます。未鑑賞の人はご注意を。


まぁ2013年で一番泣いたのはランチョーが校長先生のボールペンを受け取るシーン。嗚咽がするほど泣かせていただいた。すっごくベタなのにも関わらず心から感動させられる。しかも今回改めて鑑賞し直した時でもガン泣きしてしまった。人と人が分かりあえた瞬間がここまで感動的だとはね!

■知恵か知識か
ランチョーの家にやっとたどり着いたと思ったらそこには似ても似つかないランチョーと名乗る人物がいた。我々がランチョーと思っていた人物は一体誰なのか?というところで前半が終わる。凄く上手い引っ張り方をしやがる!こうゆうとこも好きだ。観客の気持ちを上手く引き離さないために、本当にたくさんの工夫がされている。

さて、結果我々がランチョーと考えていた人物は替え玉入学をした孤児であることが判明する。貧しいながらも学問に異様なほどの興味と優れた能力で、学歴を(バカ)息子に授けたい富豪がその孤児をランチョーと名乗らせ名門大学に入学させていたというのが真相である。

ではその男こそ、サイレンサーことチャトゥルが大きな契約を結ぶためのキーとなる発明者、フンスク・ワングルであったというオチだった。

ここで注目したいのはフンスクとチャトゥルが共に成功を収めていることである。

映画の中盤でド下ネタのスピーチをやらされた為に、散々恥をかかされたチャトゥル。更にフンスクから「学問に恋をしないと、知識だけはだめだよ」と言われ怒り心頭!

チャトゥル「俺はこのやり方(記憶一辺倒)で成功してやる!今に見てろよ!」

このような捨てゼリフをした場合、大抵ダメなのがお約束なのだがチャトゥルはちゃんと成功した。どんな手段(おそらく汚い)を使ったかは知らないが、ちゃんと家族もいるようなのでなんだかんだいってオレより幸せそう。

記憶一辺倒の勉強法は非難されがちだが、それをとことんまで突き詰めて成功する人物をちゃんと映すのも私は評価したい。要は学問というものに対して恋をしていようがしていまいが、ちゃんとアプローチをすればそれなりの見返りはあるんだよということだ。

まぁ知恵派の人、つまり本当に学問が好きで好きで、どうにかこいつを使って世の中をよりよくしたいなという志を持つフンスクの方が楽しそうに、そして成功しているというのは当たり前だよなって気もする。何かが好きっていうエネルギーが世界を動かしているんだから。だけど記憶一辺倒に努力して勉強したヤツが成功できないという姿を見せないのは正解だった。


学問が宗教の壁を越える
映画の最初に一人の若者が死に、中盤ではラージューが自殺未遂をする。急激な発展を遂げる国での若者たちの自殺率は高い。インドも世界でトップクラスに自殺率が高い国だ。宗教上、自殺が禁止されているにも関わらずだ。

実際のインドでは元々貧しい人々が借金苦によって自殺するものだと推定されていたが、中身を開けてみると裕福な層の子供も、自殺が多いことが判明した

理由は親からの過度な期待、学校での成績を高く維持することのプレッシャーが原因だという。この辺り日本でも通ずる問題だ。

しかしこの映画の自殺、自殺未遂をする二人は裕福な家庭ではない。彼らが自殺する理由は”退学”を迫られるからだ。つまり学歴社会である世界から追放されることを意味している。

でも学歴がなくたって立派に成功している人もいるじゃないか!と思うかもしれないが、インドは事情が違う。

カースト制度があるからだ。

映画中はっきりとは言われないが、ラージューはカースト制からいうとかなり低い地位ではないかと推測される。カースト制度は根深く、昔ほどではないが今尚インドではその考えを深く持っている人々は残っている。生まれた瞬間から自分のポジションが決められ、そして変えることはできない。

しかしある方法でこのカースト制度から抜け出すことができるのである。

それが学問なのだ。

いい大学に入り、ITの分野でいい会社につけばカースト制度とは関係なく裕福な暮らしを送ることができ、養ってくれた家族も救うことができるのだ。

カースト制度の枠組みの関係のないフィールドに行くために、なんとか這い上がろうとして必死に勉強して大学に入学したラージュー。しかし退学されたら二度とそのフィールドに行くことなく、カースト制度の枠の中で生きていかなければならない。そのような事を考え、友人を売るか、人生を捨てるかの選択を迫られたラージューの心境は相当に苦しかったであろう。


■次に光を照らすものは?
ここからは映画とは少し離れて、勝手な持論を記す。

昔々、世界を支配していた力というものは宗教だったと私は考えている。

宗教とは目に見えない力、私たちが認識できないものによる畏怖や崇拝によってエネルギーが生まれる。

高貴な血を引くとか、神の子孫だとか、王の末裔だとか、そもそも同じ人間なのにそこにあまりはっきりとわからない力が後ろにあるんですよーってことをみんなで作り出してしまって、上と下の区別が出来上がったと。しかし、このかなり論理的でない考え方による社会の支配はご存知の通り悲惨なできごとをたくさん起こしていった。

近代になり、宗教によって変わって世界を動かす力が現れた。それが学問だ。

まぁそもそも学問の元である哲学は神の存在を証明するために出現したのだが、結果神の存在を否定したり、もっと理性的な観点で物事を捉えようとする動きが近代になって行われ、今の社会が形成された。

宗教から学問へシフトチェンジしたのである。インドはある意味これを象徴しており、宗教に支配されていた社会(カースト制度)から学問によって違った枠組みに到達することができることを体現化している。

そこで私がふと、考えたのは学問に変わる新しいエネルギーはこの先生まれるのだろうか?ということである。

様々な社会制度が現れては消え、争っては消滅しを繰り返し、結果民主国家が世界を大きく支配することとなった。ではこの民主主義が我々の終着駅なのだろうか?

学問の力によって成長を遂げる国はこれからも現れ続けるだろう。しかし全ての国がその段階を超えたとしたら。もう社会は新しい段階へは映らないのか。学問は様々な人々を幸せにし、社会を発展させた。同時に大きな過ちも助長させた歴史もある。はたして、学問を越える力はもはやないのか?

その答えを導き出すのもおそらく、
学問なんだろうね。

 


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